JLPT · JLPT 5

我を忘れる

「我を忘れる」という表現がある。 自分のことを忘れるというのだから変な感じがするが、

Level: N1 · 36 sentences

Transcript

  1. 「我を忘れる」という表現がある。
  2. 自分のことを忘れるというのだから変な感じがするが、
  3. 考えてみると、なかなかうまい表現だなと思う。
  4. 映画に没入している時、
  5. いつの間にか主人公と自己を同一化し、
  6. 主人公が苦境に立たされれば、
  7. こちらも胸が苦しくなったり、
  8. 知らぬ間に手を握りしめていて、汗ばんできたりする。
  9. それは別に映画の話であって
  10. 自分の椅子に座ってそれを見ているのだから、
  11. 何のことはないと言えばそれまでだが、
  12. そんな観客としての自分のことは忘れてしまっているのだ。
  13. 先日、児童演劇に携わる方々と雑談する機会に恵まれた。
  14. その席で、実に興味深い話を聞いた。
  15. 近頃の子どもたちは劇に没入するのを拒むきらいがあるという。
  16. 劇の流れを遮るべく、
  17. 何やかんやと、野次を飛ばすそうだ。
  18. 役者がピストルを構えれば、
  19. 「それ、おもちゃじゃん」と指摘し、
  20. 誰かが死ぬ場面では、
  21. 「死んだふりしてるだけ」と叫ぶ。
  22. 悲しい場面のときに、
  23. 妙な冗談を言って笑わせる。
  24. 要するに、「クライマックスに達してゆくのを、
  25. 何とかして、妨害しようとしている」としか思えない。
  26. こうなると、劇をする人も
  27. 非常に演じにくいのは当然である。
  28. 主催者の人たちがもっと驚き悲しくなるのは、
  29. そのような子供たちがやじで騒いで喜んでいた後で。
  30. 「今日は子供たちがよくノッていましたね」と
  31. その子の親たちが喜んでいるのを知ってた時である。
  32. この親は「ノル」ということをどう考えているのだろう。
  33. 子どもたちは一見楽しげに騒いでいる。
  34. しかし、実のところは劇を展開に
  35. 「ノル」のに必死で抵抗しているのだ。
  36. おそらく、「我を忘れる」のが怖いのだ。